
Kazuma Y.
斉から日本に来た渡来人の正体
頭蓋骨の計測値で渡来系弥生人に最も近いのは新石器時代の河南省、青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった
(Wikipedia「弥生人」より引用)
前回まで、中国の斉について取り上げてみました。斉王・健は、秦に抵抗もせず国が滅んだため、愚者のレッテルが貼られることもあります。果たして、本当に愚者だったのでしょうか?
私は斉(山東省)という土地は、呂氏の勢力下にあったと言ってきました。呂氏=羌族(きょうぞく)です。今回は、春秋戦国時代前後の羌族について書いてみたいと思います。
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羌族が漢民族に同化するきっかけ~周王朝
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羌族はチベット周辺(西方)に住んでいた古代イスラエルの1氏族です。羌族の一部が、漢民族に同化していくきっかけが、殷の滅亡にありました。
殷はどういう国だったのか。
下記の画像にも記載がありますが、「紀元前1100年ごろ西方の氏族に滅ぼされ、周王朝に変わる」というのが史実です。

西方の氏族=羌族です。後に呂氏になる一族です。
武王は弟周公旦・太公望・召公奭らの助力を借り、暴虐が募ったとされる紂王(殷の最後の王)を牧野の戦いで破り、周を建てた
(Wikipedia「周」より引用)
殷が倒された理由が、羌族の進出に関係しています。
殷の王は神官であり、神々を祭るために犠牲を捧げていました。この儀式で多くの動物や人間までもが殺されていました。特に異民族が数多く生贄とされていて、その代表が羌族だったのです(甲骨文に残ってます)。また、奴隷としても強制労働させられていました。羌族は、殷に強い恨みを持っていたと思います。
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殷を倒すことに尽力した羌族、呂尚
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武王が殷を倒す時に、彼を手助けしたのが太公望=呂尚です。詳しくは、「隠された呂不韋の氏族②」をご参照ください。
呂尚(太公望)は、文王と武王の代に、国師・軍師として周を支えてきました。その功績が認められ、営丘(後の山東省臨淄)に領地を与えられ、国名を斉としました。これが羌族の東進のきかっけとなり、山東省に多くの羌族(姜姓呂氏)が移り住むことになります。
ちなみに周王は代々、羌族の女性を妻にしていました。これも、呂氏の常套手段ですね。下記は周王代々の妻の名前(一部)です。
初代・武王の妻…邑姜
3代・康王の妻…王姜
5代・穆王の妻…王俎姜
7代・懿王の妻…王伯姜
9代・厲王の妻…申姜
11代・宣王の妻…姜后
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呂氏(羌族)が名前を変える理由
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呂尚(太公望)も、もともとの名前は姜子牙と言いました。なぜ呂姓を名乗ったのかは、やはり「隠された呂不韋の氏族②」をご参照ください。既に書いた通り、殷が奴隷として羌族を使役し、生贄にしていた事実から、当時の中華では羌族に対する強烈な差別があったのだと思います。
それ故、名前を変えたり混血したり、漢民族に同化していく必要性があったのだと思います。前回特集した斉王・健も、本来は羌族であるのにも関わらず、あえて漢民族である田姓を使っていた可能性があります。
で、秦の統一後に斉から逃れて日本に移り住んだ羌族が、日本の弥生人(渡来人)となったのです。
<羌族のおおまかな動き>
殷時代…呂尚が打倒周に尽力
斉…呂尚が建国~途中田氏が政権奪取~健の時に滅亡→日本に渡来
五胡十六国時代…後秦の建国~東晋の武将・劉裕により滅亡
唐時代…青海にタングート(党項)王国建国。青海から甘粛へ移動、敦煌を支配下に。黄巣の乱:タングート王は唐に援軍。唐の皇帝の姓である「李」姓を与えらる