• Kazuma Y.

昆布ロードから学ぶことは

「富山の薬売り」や「薩摩の密輸船」と聞いて、ピンと来る人は今少ないと思います。


古代から現在に至るまで、歴史という教科書は「出来事」を学びます。学校ではその「出来事」を覚えさせられます。大人になって歴史が楽しくなるのは、「出来事」の裏に見え隠れする「事情(出来事の裏付け)」が興味深いからです。



実は明治維新に至る激動の日本において、教科書からごっそり抜け落ちている「事情」の部分があります。それは「経済(貿易)」に関することです。前述の「富山の薬売り」と「薩摩の密輸船」に関する事情が面白いので、非常に簡単な図式を作ってみました。





1827年(文政10年)、薩摩藩は借金を500万両抱えていました。当時の薩摩藩の年間経常収支が12~14万両なので、なんと35年分の収入に該当する金額です。現在、「大変だ」と言われている日本の債務が、一般会計税収の約15年分ですから、薩摩藩の借金は半端ないですよね。到底返せる額ではなかったのです。


それを薩摩藩は、なんと完済してしまうのです。どうやって返したのでしょう?


まずそもそも、なぜそんなに借金を抱えることになったのか。それは、江戸初期以降、江戸幕府から命じられた仕事が発端です。江戸城の修築、上野寛永寺本堂の建造、木曽川治水工事などを課せられたわけです。そのせいで、膨大な借金を抱えることになった薩摩藩。後に薩摩藩が倒幕運動に傾倒していくのも、心情的には理解できなくはないですよね。


で、薩摩藩が目をつけたのが密輸でした。


薩摩藩は「昆布」を押さえようと考えます。富山藩が、船で北海道の松前や江差から昆布を運んできます。それを薩摩藩は支配下にあった琉球産の黒砂糖と交換します。当時は砂糖は貴重なもので、政府が管理していましたから、この琉球産の黒砂糖も密輸ということになります。支配下の琉球から黒砂糖を仕入れる際、富山から仕入れた昆布を渡す。この昆布は、中国(当時の清)が高値で買い付けたのです。



清では、風土病が蔓延していました。それに効くのがヨードやカリウム、カルシウムを豊富に含む昆布だったのです。


琉球が得たものは図にある通り、中国の薬草でした。具体的には竜脳・沈香・辰砂・麝香・牛黄・山帰来といったもので、これらは日本で高く売れたのです。そのため、琉球は薩摩を通してこれらの薬草を富山藩に流す。富山では薬売りが財を成し、薩摩藩はその対価として得た昆布を大量にさばくことで膨大な利益を上げ、なんと前述の500万両を返済してしまうのです。もちろん、すべて密輸行為であるため、幕府にバレてはいけない秘密裏の商売でした。ただ、図に書いた全員が損をしない、Win-Winの関係にあったわけです。


これを知っていたのが…土佐藩(後に脱藩)の坂本龍馬。彼は国際市場で何が高く売れるのかを、つぶさに調査していたのです。そう、それが亀山社中という流通商社に繋がるのです。



このように、「歴史」を出来事だけで見るのではなく、「経済」と絡めて見ていくと非常に興味深いですよね。もちろん当時から「金の切れ目が…」ということもあったと思います。そして、この経済(商売)を否定した藩は勢力争いにも負けて行くわけです。それは江戸幕府が説いた「士農工商」という価値観に、いつまでもしがみついてしまった結果ではないでしょうか。言葉を替えると、「忠実だった」ということになるのですが…ここが歴史の皮肉なところです。


最終的には江戸末期、チカラを持っていたのは「商」でした。


私は会津出身です。明治維新は会津にとっては敗者の歴史かもしれませんが、歴史の出来事そのものよりも、その裏にある事情を学び実践したいと常々思ってきました。そこにあったのは、遺恨ではなく、「どのような時代が来ても自らが変化を恐れずに未来志向の目を持つこと」です。


時代という波に翻弄されて生きるよりも、その波に乗り、楽しむ。そんなことを学ばせてくれた「富山の薬売り」と「薩摩の密輸船」でした。現代人が歴史から学ぶことは、たくさんありますね。


#富山の薬売り

#薩摩の密輸船

#士農工商

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