
Kazuma Y.
李信の子孫が実は日本に来ていた!?
前回、前々回と、キングダムでおなじみ、秦の将軍・李信の子孫にスポットを当ててみました。個人的には一冊くらい本が書けるんじゃないか…と思うくらい、古代中国の歴史を妄想しまくっています。
本題に入る前に、まだ読んでない方はこちらを読んでください。
さて、今回は「李信の子孫が実は日本に来ていた」という事実を書こうと思います。

(英彦山神宮@福岡県添田町)
西暦531年、英彦山(ひこさん)に中国の魏から来た善正という人が住み、修行をしていたそうです。その時のエピソードをご紹介します。
このころ、豊後国日田郡に藤原恒雄という者がいて、弓射がうまくよく猟をしていた。獣を追って山に入ったときに、岩窟に座している善正を見て不思議に思い、何でそういうことをしているのかと聞くが言葉が通じない。善正も恒雄に殺生の罪を話すが通じないので、恒雄は猟を続けていた。(ソース:「彦山開山伝説」より)
言葉が通じていないので、本当に中国人(魏から来た渡来人)だったのでしょう。で、この善正は、北魏最後の皇帝・孝武帝の子である可能性が高いのです。(孝武帝の第6皇子)
「山腰有寺旧名霊山。以善正法師為開山鼻祖。伝言正者魏国人也」(『鎮西英彦山縁起』より)
北魏は過去の記事に書いた通り、拓跋部が興した国で、534年まで続きます。(北魏について)
恐らく…北魏の滅亡が近づき(正確には東魏と西魏に分裂する)、最後の第13代皇帝・孝武帝は自らの子を遠くに逃した。そのうちの1人、第6皇子の善正は日本にたどり着き、人里離れた九州福岡の英彦山に住み着いたと考えられます。もちろん、ひとりではなかったでしょう。
北魏を興した拓跋珪(道武帝)が李信の子孫でした。同じ血筋の孝武帝も、やはり李信の子孫ということになります。つまり、善正も李信の子孫ということになる可能性が高いと思われます。

ちなみに、西魏が後に北周となるのですが、北周の猛者たちも、李信の子孫です。大活躍した李三兄弟を紹介します。
・李遠(りえん)507~557年 … 西魏十二大将軍の1人として大活躍
Wikipediaを読んでいるだけで…ワクワクしてしまいます。どこか、李信の面影というか、「これ血繋がってるよね」的なところがあります。
話は少しそれてしまいましたが、李信はまさに名家・李家の祖ということになりますね。福岡の英彦山神宮は、一度訪れてみたいと思っています。何も知らずに訪れるよりも、こういう歴史のロマンスを知ってから訪れると、本当に心躍りますよね。もしかしたら、李という名前ではなくても、李信の血が日本にも残っている可能性が高いと思います。
自然と長く拝みたくなってきました。
では、長くなりましたのでこのへんで。