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隠された呂不韋の氏族④

最終更新: 4月4日


【ご参照】前回までの記事はこちら↓

隠された呂不韋の氏族①

隠された呂不韋の氏族②

隠された呂不韋の氏族③



さて、妄想が暴走モードに入りつつありますので、今回でシリーズ最終話にしたいと思います。


突拍子もないことを言いますが、呂不韋は実は服毒自殺などせずに改名して生きていて、日本に渡ってきたと半分本気で思っています。


改名した名前は…徐福です。


ぶっ飛んでますよね。自分でも分かっていますが、これを実は真剣に検証しています。


まずは徐福とは誰?ですよね。秦の始皇帝に命じられ、不老不死の薬を探しに日本にやってきたとされている方士です。方士とは、神仙思想の行者とされていますが…Google翻訳などで方士を訳してみてください。


中国語で方士とは、錬金術師のことを言います。つまり、ユダヤ人ではないでしょうか。


その徐福が上陸したとされる場所が日本にいくつか存在しています。そのうちの1つ、京都の新井崎神社(にいざきじんじゃ)を昨年訪れてみました。


本当にひっそりとしていて、私以外、誰もいませんでした。





新井崎神社が近づくと、日本語の看板が。


石碑には「秦始皇帝」の文字が。



つまり、徐福が中国から海を渡って日本にやってきたことは間違いなさそうです。あとは、呂不韋=徐福となるような検証が出来ればと思いました。


徐福は、斉国琅邪郡(現在の山東省)の生まれと言われています。出てきましたね、山東省。山東省は、過去記事に記載した通り、呂氏のお膝元です。


【参照】隠された呂不韋の氏族②


呂不韋が自らの子=呂公を産み、育てた地ですね。


呂不韋=徐福だとすると、年齢はどうなのでしょう。再度、呂不韋の年表を出して追記してみます。


<呂不韋・年表>

 紀元前290年 0歳  濮陽(現在の河南省濮陽県)に生まれる

 紀元前265年 25歳 呂公が生まれる

 紀元前259年 31歳 嬴政(後の始皇帝)が生まれる

 紀元前249年 41歳 荘襄王元年、相国となる

 紀元前236年 54歳 蜀に流刑

 紀元前235年 55歳 死去→「徐福」に改名

 紀元前221年 69歳 秦が中華統一

 紀元前219年 71歳 徐福、嬴政に初めて会う


史実では、呂不韋は、趙姫(嬴政の母)としばらく関係を続けていた。その後、ロウアイという男を宦官と偽り、趙姫と関係を持たせていた。趙姫とロウアイが子どもを2人作ったことが嬴政にバレて、ロウアイと子どもは処刑。法治国家を標榜していた嬴政は、どうしても実父である呂不韋を処罰しなければならなかった。


表面的には、子楚の時代から続く呂不韋の功績を鑑み、処罰を甘くした…その後、将来を悲観した呂不韋は服毒自殺したということになっていますが、富も名声も人脈もあるユダヤ商人の呂不韋が、何を悲観することがあるのでしょう。商人として各地に赴く術を知っているわけですから、行こうと思えば別にどこにでも行けたわけです。


そこで嬴政も実父の呂不韋も知恵を絞った。「呂不韋」は死んだことにして、「徐福」に改名し、もともと呂氏のベースが存在していた山東省に身を寄せる。「徐福」は山東省で生まれたことにしておいて、秦が中華統一をして2年経ち、ほとぼりが冷めてから方士=錬金術師として「初めて嬴政と会った」ことにした。


ここでも、呂不韋は「西の地:蜀」に行ったことになってますが、実際は「東の地:山東省」にいて、人の目を眩ませるように仕向けています。


※あとがき※

蜀の地は、当時「羌族」が住んでいました。でした。よって、呂不韋が晩年に蜀の地に流れたとされているのは、むしろ呂不韋が同族である羌族の地に行ったということであり、まったくおかしなことではありません。

※あとがき終わり※


で、嬴政と会った当時、71歳という高齢であれば、周りから見れば「長寿の秘訣を知っている」ことになる。始皇帝は、「日本に行って長寿の仙薬を探してまいれ」と徐福に命じたが、それは文字通り「仙薬探し」と、裏の意味である「中華から実父を逃がす」「日本で商売して稼ぐ」口実になった。呂不韋は徐福として財宝や商材とともに船で日本に渡り、上陸した。呂尚は100歳を超えて生きていたそうなので、呂氏一族はもともと長寿の一族だったのかもしれない。


ちなみに徐福=ジョセフ=ヨセフ(ヘブライ語)とは、イエス・キリストの養父である聖ヨセフにちなんで名付けた。



日本に渡り、ユダヤ商人としてさらに財を成し、それを中国に運ぶ。運んだ先は、やはり山東省。息子の呂公がその財を使い、呂雉を通じて劉邦に肩入れする。始皇帝が紀元前210年に50歳で亡くなってからは、呂不韋(呂氏)の影響力が及ばない宦官の趙高が実権を握ってしまい、秦を何らかの形で滅亡させなければならなくなったからだ。劉邦が50歳で咸陽を落とした時、呂不韋(徐福)は生きていれば84歳になっていた(注釈)。劉邦は漢民族として、初めて中華を統一する。劉邦の敵は楚の項羽であり、楚はチャン族(羌族)とはまた別の氏族(失われた10氏族の1つ)として栄え、日本にやってきて熊襲となった(過去記事「古代の血の継承」参照)。


※注釈…一説には、徐福は紀元前208年に死去したという話もあるので、呂不韋だとしたら82歳で亡くなったことになる。


始皇帝にしても劉邦にしても、結果的に呂氏がすべて裏で牛耳っていたということになります。それがユダヤ人の常套手段であって、今でも続いている高等戦略なのです。


誇大妄想も、ここまで来るとストーリーとしては非常に面白いと思いませんか。ユダヤ人ならあり得ます。やりかねない。司馬遷が「史記」で呂不韋をこき下ろす裏には、司馬遷は呂不韋が羌族(失われた10氏族)であり、漢民族ではないということを知っていたため、史記にはそのあたりの事情を記せないという裏があったのだと思います。そのため、史記や漢書には、呂公が呂不韋の子どもであるとか、呂姫が呂不韋の血筋であった等は、一切記載がないのです。


日本でも、古事記や日本書紀では渡来人の影響が隠されています。「日本古来の民族」が統治した国であるという、国の正当性を主張するためですね。中国も同じだったのです。ユダヤ人の影響は極力消さなければならなかった。


シリーズで書いてきた隠された呂不韋の氏族も、今回が最後です。皆さんの妄想は膨らみましたでしょうか。ではまた。


→「隠された呂不韋の氏族~番外編」を読む



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#ユダヤ人の高等戦略


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